数年前、春頃の稚内を訪れた。 観光の盛りには早いが、普段の街の姿も見たい。 隣町から来たような顔で、ゆっくりと歩こうか。 そんなつもりで、出かけてみた。
駅近くの路地裏に、古ぼけた居酒屋を見つけた。 うすら寒い夜風に、おきまりの提灯が揺れる。 こんな感じがお気に入りの妻は、僕をうながす。 「ここがいいわ、私の勘よ」と。
狭く細長い店内に、いぶされた感じの柱。 長年の商売の跡がうかがえた。 白髪混じりのご主人が、暇な様子で座っている。 木製のカウンターに、漁師風のおじさんが一人。 ほろ酔いか、気分が良さそうだった。
「ほら、お客さんだよ」 お客のおじさんが、勝手に仕切り始めた。 「カニ食べていきな、ミソ入ってないけど、 千円だよ」と、すっかり店主気取りだ。 それも、けして嫌な感じではなかった。 ご主人は少し、渋い顔だったけど。
「いらっしゃい・・・・・すみません・・・・・」 挨拶を二つ重ねたご主人が、おじさんを見る。 「カニ下さい! 酢醤油で」 妻、迷わず注文する。
妻は僕をはさんで、おじさんにニコニコしてる。 今日はこんな感じで楽しむは! と、言った顔。
「これだけど、いいですか?」 ご主人が差し出した毛ガニは、確かに軽かった。 売れなければ、カニ汁にするつもりだと言う。 でも、そんなに悪くもない。千円ならお手軽だ。 「2つ、さばいてください」 「一つ、800円にしときますね」 いきなりの値引き。まあ、これも成り行きだ。
例のおじさん、やはり漁師だった。 酒を勧めながら、やたら話かけてくる。 ほどなく、僕たち夫婦の素性も明かされる。
「そうかい、遠くからきたんだね・・・」 「稚内は初めてかい・・・」 「ふーん、共働き(当時)かい・・・」 「子供いないのかい・・・」 「奥さんも飲むのかい・・・」 妻は話に耳だけ向けて、黙々とカニをほぐす。 時々ニヤッと笑う。楽しんでいるようだった。
しかし僕は、カニをつつくどころじゃない。 漁のこと、ロシア船のこと、跡継ぎのこと。 おじさんは、次々に語る。 やがて景気の話になり、店のご主人も加わる。 右隣の妻が、ほぐしたカニをそっと差し出す。 ニヤッと笑いながら。
それからも、北辺の街の事情が語られた。 ここでは札幌さえ、はるか遠くに感じること。 そんな思いも教えてもらった。 その日まで、知らなかったことばかりだった。
おじさんは、娘さんが車で迎えに来ると、 「夏休みに来い」と言い残し、帰っていった。
こんな一泊旅行も味わいがある。 観光とはまた違う、少し別な夜だった。
今でも時々、妻が言う。 「稚内のおじさん、元気かなぁ」と。 元気でいてくれよ、また相手してもらうから。 |